華蔵院について

中山寺の再生と発展は、ここ華蔵院から始まりました

聖徳太子によって創建された中山寺は、今日まで千四百有余年の歳月を刻んできましたが、悠久の歴史の中で、幾度となく自然災害や戦乱を経験しつつも、幸いなことにその時々の人々の篤い信仰に支えられ、少しずつ形を変えながら復興、再建を繰り返してきました。 中山寺に伝わる古絵図をひもとくと、創建当初の中山寺は、現在「奥の院」と呼ばれる山上約2kmにある場所に位置していたとされ、古代の中山寺は比叡山、高野山にも匹敵するスケールの大伽藍を擁していたとされています。 今なお山頂周辺にいくつも散在する僧坊跡の石組みからも、当時の威容を容易に思い描くことが出来ます。恐らく復興を重ねるごとに、資材の運搬やその他の便宜上、次第に境内が麓の近くに移って来たのでしょう。寺域が縮小するにつれ、百を超えた宿坊も、二十坊から十七坊、十二坊へと縮小してまいりました。 今日、皆さまが目にされる中山寺の本堂は安土桃山時代の作とされ、太閤秀吉が後嗣 秀頼の誕生を喜んで寄進建立し、望海楼と呼ばれる山門の竣工は、奇しくも大阪城落城の当日であったとも伝えられています。 そして近代―。日本は明治維新という大きな転換期を迎えます。国を挙げての欧米化、文明開化のうねりの中で、新政府が打ち出した「廃仏毀釈」政策は、仏教寺院を直撃することとなりました。全国の寺院が焼き打ちや破壊にあい、仏像は風にさらされ、僧侶も寺院から逃散する事態に…。 当時、真言宗御室派(京都の仁和寺を総本山とする)の準別格本山であった中山寺もまた、例外ではありませんでした。その頃わずか五坊となっていた塔頭寺院のうち、辛うじて僧侶が住しているのは一ヶ寺のみという有様だったのです。 しかし、明治維新から十年を数える頃、過激な廃仏毀釈の嵐もようやく沈静化、人々の足は再び寺院に向かい、仏さまに手を合わせる日常を取り戻し、僧侶も次第に寺に戻り始めました。以来、中山寺は戦中戦後の時代から、未曽有の阪神大震災にも耐え、ご参拝の皆さまの敬虔な祈りに支えられてきました。 ここ華蔵院は昭和五年、総本山仁和寺門跡を退任後、四人の子弟を伴って中山寺に着任した石堂恵猛大僧正が、無人であった当院を本坊と定め、見る影もなかった伽藍を整備し、絶えて久しい年中行事を復興させる一方、阪神間各地に中山寺を信仰する団体「講」を結成して経済的基盤を確立した、言わば「司令塔」でありました。 今日、ご参拝の皆さまが目にされている中山寺を、荒廃のどん底から再生に導いたのが、まさに華蔵院第十六世住職、中山寺中興一代と称される石堂恵猛大僧正であったことは、未だ衆目の認めるところとなっております。

華蔵院の神さま仏さま

正面拝殿には毘沙門天・大日如来・阿弥陀如来。左手の持仏堂には十一面観音・虚空蔵菩薩・弘法大師。境内には水掛地蔵・子安地蔵・一願大師(弘法大師)・稲荷大明神(お稲荷さま)・動物供養碑をおまつりしております。

華蔵院のご祈祷ご供養

ご参拝の皆さまのお気持ちに沿えるよう、華蔵院では各種のご祈祷ご供養を承っております。毘沙門天さまを信仰すれば10種のご利益があるといわれるように、厄除け/厄払い・交通安全・家内安全・商売繁盛をはじめとし、数々のご祈願を聞き入れてくださいます。
当院の水掛地蔵さまによる水子供養は中山寺の中で最も古くから行われ、多くのご参拝の皆さまのお気持ちに寄り添っております。
その他のご祈祷やご先祖さまのご供養等につきましても、どうぞ当院にご相談ください。

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