お話
2022.06.01
仏教には「因果応報(いんがおうほう)」という大原則がありますが、
これは「善い行い(善業)は善い結果を生み、悪い行い(悪業)は悪い結果を生む」という意味です。
善業をなるべく多く、悪業をなるべく少なく、これが仏教における「修行」となります。
修行と一口にいっても、様々なものがあります。皆様が一番に思い浮かべるのは、
滝に打たれたり、断食をしたり、いわゆる苦行と呼ばれるものでしょうか。
それらも確かに修行の一つではありますが、日常生活を送りながらそういった機会を設けるのは難しいですよね。
特別な機会を設けなくとも、日々行うことの出来る大切な修行に「六波羅蜜(ろくはらみつ)」というものがあります。
布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の六つの修行を指しますが、
今回は「忍辱(にんにく)」に絞って皆様にご紹介したいと思います。
「忍辱」とは、要は「怒らない」ということです。
「怒り」のことを仏教では煩悩(ぼんのう)の一つとして「瞋恚(しんに)」と呼びますが、
この瞋恚は皆様が少しずつ積み重ねた善業を台無しにします。
「そんなに悪いことはしていないのに、何だか良いことがないなあ」と感じていらっしゃいませんか。
積極的に悪業を積んでいないとしても、日々の小さな怒りによってせっかくの善業が壊されてしまうのです。
また、瞋恚はさらに他の悪業を呼び寄せる原因にもなります。なぜなら、怒りは善悪の判断を鈍らせるからです。
イライラ任せに関係のない他者にあたったりすることなど、自戒の念も込めてあってはならないことです。
このように数多の悪業を生む瞋恚ですが、その反面、
忍辱行によって怒りを抑えることは、何よりも功徳があります。
修行というものはほとんどの場合、自発的に行うことが出来ます。
しかしながら忍辱行を行う際は、必ず自身に敵対する他者が必要です。
この他者は、己の意思で「思いのまま」にあなたを攻撃しているわけではありません。
他者は瞋恚などの「煩悩のままに」振舞っているため、あなたは攻撃を受けているように感じてしまうのです。
我々人間は他者に怒ることはあっても、病気や天災に対して直接的に怒ることは少ないですよね。
自身への他者の攻撃も「地球の天災」や「体の中の病気」と同じように、
「他者の中の煩悩」が行っていると理解することが出来れば、相手に対する怒りも少しは紛れるのではないでしょうか。
日常生活において、怒りのコントロールは非常に大切です。
忍辱行の実践によって、皆様の善業がさらに増進することを願っております。
※とはいうものの、皆さまのこころやからだの安全が脅かされる様な攻撃に対しては、
無理せず、我慢せず、ご自身の健康のことを一番に考えて行動していただきたく思います。
健康なこころとからだで、ほかの善業を積むことも修行の一つです。